2011年12月30日金曜日

教育論

僕が小学校3年生くらいの時に、土曜日が休みになりました。
ゆとり教育の始まりです。

それから、SMAPの「世界にひとつだけの花」が流行りました。
社会がナンバーワンからオンリーワンに翻弄された瞬間です。
(SMAPも槇原敬之も悪くないです)

就活を始めて、合同説明会に行きました。
「個性」や「オンリーワン」を求めた教育の成果が、
同じスーツを着た何万人の就活生です。

この10年ほど、教育現場では「みんな平等」や「個性」が強く求められてきた気がします。
しかし、「平等」と「個性」は両立するのでしょうか?

個性を育むというのは、平等な教育では不可能に近いです。(と思っています。)
少なくとも、いま世間一般的に言う個性とか平等ってのは。

そうすると、平等って何なんでしょう?
「扱いの平等」
「機会の平等」
これは、教育の入り口に焦点を当てた平等です。

一方で「成長の平等」
これは教育の出口に焦点を当てた平等ではないでしょうか。

つまり、今の教育は前者ばかりが主になり、後者が蔑ろになっています。

では、それはなぜか?

入り口の平等は目に見えやすく、直近の議論ができる一方で、
出口の平等は、彼らが成長した後にしか感じることができないからでしょう。

これは、政治の教育政策にも通じるものがあると思います。
というのも、教育政策の成果が出るのは、非教育者が成長した何十年もあとなので、
政治責任追及の点から無難な政策であることが挙げられます。

でも、本当に必要なのは、出口の平等ではないでしょうか?

入り口の平等ってのは、
「とりあえずみんなにチャンスをあげるから、成長するかどうかは自分次第だよー」
ってある意味では無責任な姿勢かと思います。

人それぞれの成長プロセスがあるからこそ、教育の出口に責任を持つべき。
ただ、出口の平等ってのは、同質的な人を育成するって意味ではない。
それぞれの成長プロセスに個々に対応するからこそ、個性的な人がうまれる。

つまり、成長の成果(伸び率)が平等であるべきであって、
成長の結果が平等であるべきではない。

これが今回の趣旨です。

2011年11月13日日曜日

雑多なノイズの中で

「茨高には贅沢なノイズが溢れている」

東大医学部150周年記念モニュメントのデザインと銘板の言葉に茨高56期(5つ先輩)の平野智子さん(東大医学部)の作品が選ばれました。それを機に、茨木高校について語って下さったインタビューの中で、平野さんが強調された言葉です。

この言葉を聞いたのは1年半ほど前ですが、その時、たくさんの点と点が繋がり、線になりました。
(スティーブ・ジョブスではありませんが・・・)

ここで茨高について詳しく書くことは本論から外れるので避けますが、確かに茨高では心地よい刺激が常に自分を襲ってきました。
つまりは、自分とは違うフィールドで活躍している仲間がいて、それらが互いに尊敬し合えるものであり、そんな仲間との関わり合いが自分にとって新たな価値創造となるものでした。

互いを尊重し合う。尊重し合うに値する。

ぶれない軸を持ち、自分の道を切り拓く。
ただし、最低限の協調を以て。

”自分は自分、他人は他人”とのようにも受け取れられるかもしれないが、そうではない。
そうではない温もりを感じることができた。


なぜこんなことを考えたかと言うと、贅沢ではないノイズにさらされている今の自分に気がついたからです。

就活が少しずつ始まり、あの業界がこうだ、あの会社はああだ、などなど。
かと思えば次の日にはまた違った視点での情報が流れ・・・

現代人、どうでもいい情報に流されすぎです。
自分の頭で本質を見極める力を養うべきです。
そのためには”疑う”ことです。
友達の言葉を疑うべきです。

こんな事を言うと、友達を疑うのか!と言われますが、そうではありません。
というより、こんな反論をする人ほど友達のことを真剣に考えていない人が多いです。
なぜなら、 友達の人格=友達の言葉 だと認識しているからです。
もっと言えば、疑い指摘することで、間違いに気がついたり、あるいは新しいアイデアに辿りつくかもしれません。
だから、いい意味で疑う必要があります。
何もかもを信じる人ほど危険な人はいません。
(ちょっと大げさですが・・・)

さてもう一つだけお話を。
「カクテルパティー現象」というものがあります。
例えば電車の中で、全く知らない人たちの会話の中に自分の出身校の名前が登場したら、不意に耳を澄ませてしまったような経験はありませんか?
つまり、雑音の中でも自分に関係のあるワードが登場すれば、意識を向けてしまう現象のことです。

雑多なノイズの中に身を置いた時、この現象がどのように作用するか?
それは、興味のあることに注力してしまうということです。
それはそれで良いと思いますし、当然のことだと思います。
では何が問題か?
バイアスがかかっていることに気がついていないことが問題です。
人である以上、何らかの趣味嗜好が必ず付きまといます。
その趣味嗜好の存在に気が付いているかどうかで、客観的判断ができるかどうかが左右されます。


まぁ以上の事をまとめると、もっと頭を使え!ってことです。
「人間は考える葦である」ってパスカルでしたっけ?が言ったように、
人は考えて何ぼ。

もっともっといろんなことを考えるべき。
そして発信するべき。
だって発信しないと考えてるか分からへんし、一人占めするのはズルい。笑
どれだけいい商品を企画しても販売しなければ意味がないように、
それだけ素晴らしい思考をしても、アウトプットしなければあんまり意味がないと思います。

若者よ(自分も若者やけど)、このままでいいのか。。。

2011年11月9日水曜日

グローバル化とTPP

blog初投稿です。
初回なので簡単に開設の経緯をお話しますと・・・
今までmixiの日記で日々思いついたことを書いていたのですが(特に経済・社会問題について)、量が結構増えてしまい、せっかくなのでそういった問題に関してはblogでまとめていこうってことです^^

さて今日のお題は「グローバル化とTPP」についてです。

最近、就活の一環で学内セミナーに参加しています。
いろんな企業の方が学校に来て下さり、事業内容に関してお話をして下さるのですが、たくさんの企業の方が「わが社はグローバル企業です。」といった内容のお話をされます。
「グローバル企業を目指します。」ならまだしも、「グローバル企業です。」と言われると、ツッコミたくなるのは僕だけでしょうか?
「いやいや、インターナショナル企業でしょ。」と。

つまり、グローバルとインターナショナルの違いなのです。
両者の違いについて考えたことがある方がどれほどいらっしゃるでしょうか?
高度経済成長期からバブル期あたりまでは、グローバルなんて言葉よりもインターナショナルの方が圧倒的に普及していたのではないでしょうか?
僕は生まれていないので分からないですが。

ここで両者の違いのついてお話すると、インターナショナルというのは、どこかに中心があって、その周りにブランチが広がっているイメージです。
例えば、東京に司令塔となる本社があって、世界各国に支店がある感じです。
それに対しグローバルってのは、世界中にあるそれぞれの事業所がゲームメーカー的存在であることだと思います。
つまり、支店間に上下関係がなく、すべてが同等にプレーしてる状態です。

現状の日本企業の多くは明らかにインターナショナルです。

確かに”世界レベルでの最適”を目指して、生産のグローバル展開が進んでいますが、モノの流れがグローバルになろうとも、ソフトの面ではまだまだ東京から世界に向けて放射線上に伸びる線が見えます。

グローバル化や自由化には当然ながらメリットとデメリットがあります。
ここではその詳細には触れませんが、グローバルとインターナショナルの違いをもう一度考える必要があることを主張するのが目的です。


第二の論点としてTPP問題を挙げました。
本当はTPPだけで1つの投稿にしたかったのですが、ASEAN首脳会議が3日後に迫った今、決断が下される前にTPPについて考えるキッカケを作る必要があると感じたので、少しだけお話します。

TPPの賛否については正直まだ自分なりの結論を出せていません。
しかし、「TPPに参加すると農業が衰退する」というTPP反対派の主張には賛成できません。

日本の農業にはまだまだ改善の余地が残されています。
兼業農家として感じています。

そういったことは棚にあげ、TPPという外部環境に衰退の要因を転嫁していることに納得がいかないのです。
ダーウィンが語ったように、「生き残るのは環境の変化に対応できる種」です。
環境の変化に文句を言っているようでは、破滅へのカウントダウンも始まったも同然。
ルールが変わるのなら、新しいルールの中で勝つ方法を考えなければなりません。

TPPについては後日改めて投稿しようと思いますが、今回の投稿がTPPを考えるキッカケになれば幸いです。