ゆとり教育の始まりです。
それから、SMAPの「世界にひとつだけの花」が流行りました。
社会がナンバーワンからオンリーワンに翻弄された瞬間です。
(SMAPも槇原敬之も悪くないです)
就活を始めて、合同説明会に行きました。
「個性」や「オンリーワン」を求めた教育の成果が、
同じスーツを着た何万人の就活生です。
この10年ほど、教育現場では「みんな平等」や「個性」が強く求められてきた気がします。
しかし、「平等」と「個性」は両立するのでしょうか?
個性を育むというのは、平等な教育では不可能に近いです。(と思っています。)
少なくとも、いま世間一般的に言う個性とか平等ってのは。
そうすると、平等って何なんでしょう?
「扱いの平等」
「機会の平等」
これは、教育の入り口に焦点を当てた平等です。
一方で「成長の平等」
これは教育の出口に焦点を当てた平等ではないでしょうか。
つまり、今の教育は前者ばかりが主になり、後者が蔑ろになっています。
では、それはなぜか?
入り口の平等は目に見えやすく、直近の議論ができる一方で、
出口の平等は、彼らが成長した後にしか感じることができないからでしょう。
これは、政治の教育政策にも通じるものがあると思います。
というのも、教育政策の成果が出るのは、非教育者が成長した何十年もあとなので、
政治責任追及の点から無難な政策であることが挙げられます。
でも、本当に必要なのは、出口の平等ではないでしょうか?
入り口の平等ってのは、
「とりあえずみんなにチャンスをあげるから、成長するかどうかは自分次第だよー」
ってある意味では無責任な姿勢かと思います。
人それぞれの成長プロセスがあるからこそ、教育の出口に責任を持つべき。
ただ、出口の平等ってのは、同質的な人を育成するって意味ではない。
それぞれの成長プロセスに個々に対応するからこそ、個性的な人がうまれる。
つまり、成長の成果(伸び率)が平等であるべきであって、
成長の結果が平等であるべきではない。
これが今回の趣旨です。