2011年11月13日日曜日

雑多なノイズの中で

「茨高には贅沢なノイズが溢れている」

東大医学部150周年記念モニュメントのデザインと銘板の言葉に茨高56期(5つ先輩)の平野智子さん(東大医学部)の作品が選ばれました。それを機に、茨木高校について語って下さったインタビューの中で、平野さんが強調された言葉です。

この言葉を聞いたのは1年半ほど前ですが、その時、たくさんの点と点が繋がり、線になりました。
(スティーブ・ジョブスではありませんが・・・)

ここで茨高について詳しく書くことは本論から外れるので避けますが、確かに茨高では心地よい刺激が常に自分を襲ってきました。
つまりは、自分とは違うフィールドで活躍している仲間がいて、それらが互いに尊敬し合えるものであり、そんな仲間との関わり合いが自分にとって新たな価値創造となるものでした。

互いを尊重し合う。尊重し合うに値する。

ぶれない軸を持ち、自分の道を切り拓く。
ただし、最低限の協調を以て。

”自分は自分、他人は他人”とのようにも受け取れられるかもしれないが、そうではない。
そうではない温もりを感じることができた。


なぜこんなことを考えたかと言うと、贅沢ではないノイズにさらされている今の自分に気がついたからです。

就活が少しずつ始まり、あの業界がこうだ、あの会社はああだ、などなど。
かと思えば次の日にはまた違った視点での情報が流れ・・・

現代人、どうでもいい情報に流されすぎです。
自分の頭で本質を見極める力を養うべきです。
そのためには”疑う”ことです。
友達の言葉を疑うべきです。

こんな事を言うと、友達を疑うのか!と言われますが、そうではありません。
というより、こんな反論をする人ほど友達のことを真剣に考えていない人が多いです。
なぜなら、 友達の人格=友達の言葉 だと認識しているからです。
もっと言えば、疑い指摘することで、間違いに気がついたり、あるいは新しいアイデアに辿りつくかもしれません。
だから、いい意味で疑う必要があります。
何もかもを信じる人ほど危険な人はいません。
(ちょっと大げさですが・・・)

さてもう一つだけお話を。
「カクテルパティー現象」というものがあります。
例えば電車の中で、全く知らない人たちの会話の中に自分の出身校の名前が登場したら、不意に耳を澄ませてしまったような経験はありませんか?
つまり、雑音の中でも自分に関係のあるワードが登場すれば、意識を向けてしまう現象のことです。

雑多なノイズの中に身を置いた時、この現象がどのように作用するか?
それは、興味のあることに注力してしまうということです。
それはそれで良いと思いますし、当然のことだと思います。
では何が問題か?
バイアスがかかっていることに気がついていないことが問題です。
人である以上、何らかの趣味嗜好が必ず付きまといます。
その趣味嗜好の存在に気が付いているかどうかで、客観的判断ができるかどうかが左右されます。


まぁ以上の事をまとめると、もっと頭を使え!ってことです。
「人間は考える葦である」ってパスカルでしたっけ?が言ったように、
人は考えて何ぼ。

もっともっといろんなことを考えるべき。
そして発信するべき。
だって発信しないと考えてるか分からへんし、一人占めするのはズルい。笑
どれだけいい商品を企画しても販売しなければ意味がないように、
それだけ素晴らしい思考をしても、アウトプットしなければあんまり意味がないと思います。

若者よ(自分も若者やけど)、このままでいいのか。。。

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